仙台高等裁判所 昭和54年(ネ)124号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
【説明】
叔父X(分家、仏教)と一才年下の甥Y(本家、天理教)との墓地争いの事案であるが、Xの占有の有無が焦点であつて、宗教上の争いはさほど深刻なものではない。
Xの祖父Aの養子Bは、明治四一年Aの隠居により家督相続して本件墓地の共有権等を承継すると間もなく、伝来の居宅にAのほか早世したBの長男の妻と子(Yら)を残して、Xらを伴つて隣部落に移住した。兄四名が夭折したり分家した結果事実上Bの後継者となることが予定されていたXは、Bが戸主である間はBを代行し、昭和一二年Bが隠居してYが家督相続し自己が分家届をした後においても、本家の如くに振舞つて本件墓地の使用管理を続け、その卑属等を土葬に付したほか、昭和四八年三月Yの許諾なしに独自に墓碑を建立した。一方Yも同墓地に妻や娘の遺骨を納めるなどして管理使用していたのであり、昭和四九年四月X建立の墓碑を撤去してそれを同墓地の脇に移し、別の新たな墓碑を建立した。そこでXは占有権を根拠に右墓碑等の収去と本件墓地の明渡を求めると共に、慰藉料五〇万円の支払を訴求した。
一審は永年にわたる主導的ともいうべきXの使用状況を重視して、XにYとの共同占有があると判断した。本判決は判文の如く逆の結論をとり、墓碑を建立したのもYの占有に対する侵害であつて占有の取得に当らないとし、Yが該墓碑を撤去して傍らに移したのも不法行為にはならないとした。
現民法下にあつても、祭祀承継者と世帯・生計を別にするに至つた者が前者の許諾ないし黙認のもとに共通の墓地を使用する例は多いであろう。文献や先例の少ない分野であるため、紹介する。
【判旨】
一被控訴人の本訴請求は、本件墓地(郡山市熱海町大字長橋字館一六二番墓地七六六平方メートルのうち、原判決添付図面中斜線を施して表示されている部分)につき、昭和七年ころまでは被控訴人の先代三次郎のみが占有使用し、昭和七年から三次郎の没する昭和二一年までは三次郎と被控訴人が(共同で)占有使用し、昭和二一年から現在までは被控訴人が単独で、もしくは被控訴人と控訴人が(共同で)占有使用してきたところ(その間昭和一二年一〇月二二日に戸主三次郎が隠居して控訴人が家督相続したのは形式的なものにすぎない)、控訴人は、被控訴人の建立にかかる墓石、卒塔姿をすべて撤去し、従前これらが立つていた本件土地の主要部分に周囲約10.8メートル、高さ約二〇センチメートルの石垣を積んで囲い込み、その内部に盛土をし、控訴人の墓碑を建立するなどして、被控訴人の本件墓地に対する占有を排除、侵奪したから、被控訴人は占有回収として控訴人に対し右石垣、墓碑の収去と同土地部分の明渡ならびに慰藉料五〇万円の支払を求めるというのである。
控訴人が昭和四九年四月に本件墓地上に被控訴人主張の石垣を構築したことは当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すれば、右石垣構築に先立つて、控訴人は被控訴人建立の墓碑等(被控訴人が本件墓地に墓碑を建立した経緯については後段で認定説示するとおりである。)を従前の場所から一時撤去し、石垣の内部に土を盛りその地上に控訴人の墓碑を建立したものであるが、一時撤去した墓碑、墓石等は石垣の南側に復原設置したことを認めることができる。
そこで、被控訴人が本件墓地につき占有ないし占有権を有していたか否か、控訴人が前記のとおり石垣を構築して墓碑を建立したことが被控訴人の占有を侵奪したことになるか否かの点について判断する。<証拠>(慈眼寺過去帳)、<証拠>(埋葬認可葬式控書)、<証拠>(登記簿謄本)、<証拠>(各除籍謄本)、<証拠>(原戸籍謄本)、<証拠>(戸籍謄本)、<証拠>(法事御供物受納帳)、<証拠>(登記申請書)、<証拠>(供述書)、<証拠>を総合すれば、以下の各事実を認めることができる。
1 被控訴人は控訴人の父亡橋本捨太郎の弟であり、一家の身分関係図は本判決添付別紙<省略>記載のとおりとなる。すなわち、被控訴人は亡橋本三次郎の五男で明治三五年の出生、控訴人は被控訴人の長兄(三次郎の長男)橋本捨太郎の長男で一年後の明治三六年の出生である。捨太郎は明治四〇年三月六日に死亡し、控訴人の母トハは後記のとおり橋本信吉と再婚した。橋本家の戸主であつた伊助は明治四一年初めに隠居し養子三次郎が家督相続して戸主となつたが、三次郎は、そのころ、それまで橋本家の屋敷であつた字後庵二四番地の居宅(控訴人の現住所)に右伊助のほか、捨太郎に先立たれた同人の妻トハおよび控訴人とその弟助次を残し、後庵から一〇〇〇メートル余離れた宇館九二番地(被控訴人の現住所)に家を建てて移り住んだ。
2 トハは大正元年に橋本信吉(三次郎の甥)と婿養子縁組し、後庵の家に住んだ。伊助は大正四年に死亡した。信吉トハ夫婦とその間の子らは昭和五年に長橋字植松(字館の近く)に移り住み、後庵の家には当時すでに妻帯していた控訴人が残つた。
3 橋本家では元来後庵の居宅近くの山裾に墓地を有していたが(以下これを「旧墓地」という)、伊助の代に前記の字館一六二番地七六六平方メートルを他の三一名と共有するに至り、爾来その一画である本件墓地を橋本家の「新墓地」として専用するようになつた。右墓地は真言宗室生派慈眼寺の境内に隣接しており、明治時代から大字長橋地区住民の共同墓地となつたものである。
伊助は遅くも明治三三年に天理教に改宗し、同年中に前後して死亡した妻ナツおよび母ンメならびに前記捨太郎については神式の葬儀を行ない、新墓地に葬つた。明治二六年に死亡した伊助の三男千代三郎も新墓地に葬られたが、葬儀は仏式でなされた。
明治四一年初め伊助の隠居により三次郎が家督相続をしてから、明治四二年にその四男徳平、大正二年に養父伊助、昭和七年に三次郎の七男春美、昭和八年に被控訴人の二女貞子が死亡し、それぞれ神式の葬儀により本件墓地に埋葬された。これらの葬儀はいずれも三次郎が名実共に橋本家の戸主として主宰執行したものである。
4 三次郎の残された男子のうち二男助次郎(乙第一ないし第三号証に三男とあるのは戸籍記載の誤りであると推認される)は早くから世帯を別にしており、前記のとおり三男千代三郎、四男徳平は早世したため、五男の被控訴人が館の家の跡取りのような形となつた。かくして被控訴人は、三次郎が戸主として本件墓地を所有・管理していた間は、三次郎を補助或いは代行する形でこれが管理に当つていた。なお二男助次郎は昭和一一年二月四日分家届出をした。
5 昭和一二年一〇月二二日に三次郎が隠居し、控訴人が亡捨太郎の承祖相続により家督相続し橋本家の戸主となつた(この事実は当事者間に争いがない)。
三次郎は館の家を隠居の留保財産とし、被控訴人は同年九月に分家届出をして引続き館の家に三次郎と同居していたが、叙上の経緯から館の家が橋本家の本家であるかのような観を呈していた。その後昭和二〇年頃までの間に被控訴人は天理教から離れて前記慈眼寺の檀徒となつた。本件両当事者の属する長橋地区では、分家した者は別に墓地を求めるのが通例となつていたが、被控訴人はこのようなことはせずに三次郎死亡後は館の家を相続し本件墓地の使用を継続しうるものと考えていた。
三次郎の六男富芳は昭和一七年一月に分家届出をした(富芳は昭和四五年に死亡した)。
6 昭和二〇年九月に三次郎の妻サタが死亡し、翌二一年三月に三次郎が死亡した。右いずれの葬儀の場合も控訴人が喪主となつたが、被控訴人が差配して神式と仏式の双方を兼ねた葬儀を執行し、本件墓地に埋葬した。館の家は被控訴人が遺産相続により取得した。
7 昭和二一年六月に死亡した控訴人の五女澄子および昭和四五年八月に死亡した控訴人妻ナカについては、控訴人が喪主となつて神式の葬儀を行ない、昭和四三年一月に死亡した橋本富洋、同いずみ、同常孝(被控訴人の二男光芳の妻と子二名)については、右光芳が喪主となつて仏式の葬儀を執行した。以上の五名とも本件墓地に埋葬された。
8 被控訴人の館の居宅は本件墓地の極く近い場所にあるのに対し、控訴人の後庵の家は前記の如く離れていて、しかも天理教であるため、彼岸や盆の折に本件墓地の清掃をして参拝をするのは被控訴人とその家族であり、共通の先祖の命日にも被控訴人方で先にこれを済ますことが多かつた。
被控訴人は昭和四八年三月、本件墓地内に従来からあつた墓石を整理して新たな墓碑を建立した。右新墓碑は印度石を用い、その表面に「橋本家」と横書に刻し、裏面に「金作、ンメ、伊助、ナツ、千代三郎、徳平、春美、貞子、三次郎、サタ、富洋、いずみ、常孝」の名または法号を縦書に並べて刻し、側面に「昭和四十八年三月十五日橋本好美建之」と縦書に刻したものである。このことについて控訴人は当時被控訴人から相談を受けたり、諒解を与えたりはしていなかつたが、特に抗議もしなかつた。
9 冒頭掲記のとおり、控訴人は昭和四九年四月に本件墓地内に石垣を構築して石垣内部に盛土をし、新たな墓碑を建立したのであるが、右工事の着手にあたり被控訴人に対し、墓地の整理をする旨を連絡したので、亡橋本富芳の長男伊助が被控訴人の意を受けて来会したが、伊助は被控訴人建立にかかる墓碑を撤去・移動する工事に反対して墓地上に立ちふさがり、これを阻止しようとした。これに対し、控訴人は警察署に電話して警察官の派遣を求め臨場を得た程であつたが、暴行沙汰には至らないと判断した該警察官は民事不介入の態度をとつて引揚げた。控訴人と右伊助の争いは結局物別れとなり、控訴人は工事を続行して約一週間後にこれを完成した。控訴人の建立した墓碑は、印度石の表面に「橋本家之墓」、裏面に「昭和四九年三月建之橋本操」と刻した大型のもので、その傍らに薄型の印度石に「墓誌」と題し、「金作、ンメ、伊助、ナツ、三次郎、サタ、捨太郎、トハ、千代三郎、徳平、春美、操(赤字)、ナカ、(他略)」の氏名を死亡年月日および年齢を刻したものが附置されている。
被控訴人が先に建立した墓碑は、本件墓地のうち前記石垣の南側に接して台座、供物台、花立等と共に東向きに復原再建され、祭祀に支障のない状況になつているが、墓地の地盤に余裕がないため、この墓碑の部分に被控訴人希望の土葬をすることは不可能であり、火葬による骨壺を収納しうるのみである。
10 旧墓地の管理は専ら控訴人方でしているが、元治二年に死亡した橋本金作(伊助の父)を最後として、以後旧墓地に葬られた者はいない。
なお被控訴人は新たな墓碑を建立するに当り、従来からあつた墓石を整理したが、これらの旧墓石を廃棄したわけではなく、伊助、三次郎、サタ等の墓石はそのまゝ本件墓地内に建立されたままの状態で存置されている。控訴人による新墓碑建立後もこのことに変りはない。
以上のとおり認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。
これらの事実に依拠して検討するに、昭和二二年法律第二二二号による改正前の民法九八七条は「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ハ家督相続ノ特権ニ属ス」と規定していたのであるから、昭和一二年一〇月二二日三次郎が隠居し控訴人が家督相続したことにより、本件墓地の所有権(正確には他部落民との前記共有権と専有権)と占有権および右時点までに建立設置されていた墓碑等の所有権と占有権は、三次郎から控訴人に承継取得されたことが明らかである。被控訴人は控訴人の家督相続が形式的なものであるというが、首肯し難く、生前の三次郎と被控訴人は、爾来戸主たる控訴人の補助者としてこれらの管理を継続して来たのにすぎないというべきである。前記6、7の如く、昭和二〇、二一年に三次郎とその妻サタが死亡した際の葬儀を被控訴人が差配し、昭和四三年一月に死亡した富洋ら三名が本件墓地に埋葬されたのは、従来からの経緯や親族間の情義により控訴人がこれを阻止せずにいた結果にすぎず、被控訴人が本件墓地を使用するにつき何らかの権原を有していたと認める余地はない。したがつて被控訴人が昭和七年ころから本件墓地を占有してきたとする被控訴人の主張は採用できない。
二ところが昭和四八年三月被控訴人は前記の如く独自に新たな墓碑を建立した。被控訴人はこれにより本件墓地につき占有を取得したとも主張するかの如くである。しかしながら、本件墓地はもともと控訴人が占有していたものであるから、その一部分に被控訴人が新墓碑を建立してもこれにより控訴人の占有が侵奪されたことにはならないのであり、被控訴人の右行為は控訴人の既存の占有状態に対する部分的な侵害を意味するが、本件墓地の全体に対してはもとより、右新墓碑直下の地盤部分に対しても、被控訴人が単独占有もしくは控訴人との共同占有を取得したことを意味するものではない。したがつて被控訴人の本訴請求が占有回収の訴であれば、もとより理由のないものとなるが、占有保持の訴の趣旨をも包含するものとしても(原審はそのように取扱い、被控訴人はこれに不服を述べていない)、到底これを認容することができない。他人の占有を侵害しつつある者がその侵害を排除されたことに対して、占有保持の訴を提起しえないのは自明のことだからである。
三被控訴人は占有そのものの回復または妨害の停止と共にする損害賠償とは別に、その宗教生活における精神的自由を一方的に踏みにじられたと主張して、不法行為による慰藉料請求をも併せ申立てていると解される。控訴人が本件工事に際しその以前に被控訴人が建立していた墓碑等を本件墓地内からその南側空地部分に移したことは前認定のとおりであるが、これが被控訴人の右自由の侵害となるのでないのは明らかである(被控訴人が本件墓地内に土葬埋葬しえなくなつたとしても、もともと被控訴人は本件墓地の使用権原を有しないのであるから、このことはその精神的自由とは無縁である)のみならず、控訴人はその所有占有にかかる本件墓地上に前記のとおり改正前の民法のもとにおける橋本家の戸主としてその祭祀を主宰するため累代の墓を建立するについて支障となる墓碑等を傍らに移したに止まり、殊更にこれを破壊したり放置したのではなく、被控訴人の祭祀にとつて十分な程度に復原したものであるのに加えて、そもそも被控訴人は本件墓地上で権原なく自己の直系卑属等を含む(当然ながら控訴人の家族や直系卑属等を含まない)「橋本家」の墓をその名を刻して建立していたのであるから、控訴人によつてこれが傍らに移されたことにつき精神的苦痛を受けたとしても、これを受忍すべきものであり、控訴人の右所為をもつて違法とすることはできず、被控訴人は控訴人に対し慰藉料を請求しうるものではない。<以下、省略>
(田中恒朗 佐藤貞二 小林啓二)